top of page
検索

  • koya21
  • 2017年10月20日
  • 読了時間: 3分

更新日:2021年10月8日



先日、Myriam Lefkowitz << Walk, Hands, Eyes >> に参加をした。


参加者は一人ひとりガイドに導かれながら目を閉じたまま街を散策する。

時折ガイドは任意の場所で参加者に目を開けるよう促す。音と匂いと触覚と、いくつかの風景の記憶だけで歩き続ける。

一時間ほどで元の場所に戻ったが、どこをどう行ったか見当もつかない。もともと方向感覚がないので期待してなかったけど。

初めのうちはずっと斜めに歩いている気がしてた。小雨の日で、雲の向こうの太陽が瞼越しでもぼんやりと輝いていた。それが常に啓示を示唆しているみたいで笑ってしまいそうだった。盲目で全てがおぼつかないまま手を引かれてるのも神話ぽくって、そういうイメージでしばらくは遊んでいた。

顔の向きを細かく動かすと音の聞こえ方が違うとか、すり足で歩くよりゆったり大きめに着地する方が安全だとか、ただの風を何かが通ったと錯覚したりとか。細かな気付きで頭の中は案外忙しかった。緊張と不安と浮き足立つ気持ちがずっと混在して、たくさんのことを得たい欲深さから必要以上にイメージを広げようともしていた。些細などうでもいいことにいちいち反応するのがたのしかった。

おそらく普段から非現実的な状況をシミュレーションしがちで(おそらく…)、この時ももしこのまま視覚を失ったら白杖のあの規則的な音をこの手の代わりにするのかと想像して、途端に不安に包まれた。あまりにバカバカしい。その場でガイドに一声かければ簡単に元に戻るのに。

いつも地に足つけて音をきいている人はそんなことはないだろうが、私の耳はさぼってばかりなので、突然の重労働に戸惑ってあたまがいろんなことを怠った。導いてくれる腕があることはいつかそれがなくなることも意味するので、あの音を蜘蛛の糸のように頼るしかなくなること、誰かの心の奥の疲れを声音と手の感触だけで探ることを考えて、怖くて怖くて早く終わらせたいと思った。

でもそれは一瞬だった。自分から止めようなんて思いつきもしなかったから、結局はフィクションとして戯れていたんだろう。

視覚を使い続けることは常に発見をしていることとは違う。疑いを持たなくていいラインがずっとあるということだ。揺らがなくって済んでいる。光で常に楽をしてる。

ブリキのような何かが鳴っている所にずっといたり、焼肉屋の前でその音と匂いとだれかの視線を目を閉じたまま探ったり。(テレビの音は本当にテレビの音だったのか?)

促されて、小さな女の子2人が遊んでいるのを見た。あと暗い駐車場とか、階段とか、誰かの家のベランダとか。その時すぐに飲み込めなかった景色の方が印象深い。人が生活しているのにどこか遠さがある。構図まで決まって記憶に焼き付いている。フィルム写真の感じに近い。ひとりでは一生発見できない風景。あれらは完全に他人の視覚だと言い切れるんじゃないか?目の裏で想像していたものはぜんぶ自分の匂いがする。

終わった時は、裸のまま間違えて外に出てきてしまったみたいな……そういえば他人との話し方って知ってたなとか。外と内面は違うことすら忘れてて、動揺しなくていいのにアワアワして、こんなの滑稽だって客観してるのに体がうまくいかない。

なんでか受験のあとみたいに混乱が輪郭をぼやけさせてるような、妙な体験。こうして書くと本当に子供っぽい内容で恥ずかしい。でも面白かった。もう少し冷静になれたらいい。

最新記事

すべて表示
category
bottom of page