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statement1

  • koya21
  • 2016年11月1日
  • 読了時間: 3分

大抵は安定しているが、突然あらわれてそれまでの平穏を一瞬でなかったことにしてくるものがあり、それは形を変えながらどこにでも現れる。

最近では、最寄り駅から自宅までの帰路にある、踏み切り沿いのビルの横に佇んでいた男。ビニール傘にわずかに体重を預けながら、静かに立ちすくんでいる。彼のスーツの左肩には、白い砂のような汚れが付いている。どこかが痛むのだろうかと思って、近づいてそっと覗き込んだ。安らかな表情で目を閉じて、眠っているのか、瞑想しているのか、判然としない。まるで、教師の目を盗んで教室の隅で密かに充電される携帯電話のようだった。中に人が入っていない人間。ゆっくり通り過ぎながら眺めていたが、彼が動くことはなかった。

ある時は、山手線の車内でドア沿いの手すりにもたれかかっている女だった。一駅進むごとに身体から力が抜けていき、ぺたりと崩れ落ちてしまった。親切な女性がその女に声をかけるが返事をしない。肩を叩いても、耳元で大きな声で叫んでも、反応がない。そして、何度目かの降りられるかという問いに、かすかに頷いた。女性の安心が伝わった。しかし次の駅に着く直前、女はあっさり目を覚ました。なぜ注目されているのか本当にわからないようすで、不思議そうに周囲を見渡して、声をかけ続けていた女性に、大丈夫ですと一言残して、高いヒールを鳴らして降りていった。毎日同じ電車に乗っていると降りるべき駅で自然に目が覚めるということがよくあるが、女もそうだったのだろう。

他者に対して自発的に動く一個人という単位に、なんの疑問も持たずに生活している。並んでそびえ立つ高層ビルや、同じ形の家々が密集する集合住宅地、画一的な正方形や長方形がずらりとしているマンションなどはそうした単位への信頼を元に作られている。また、証明書で自身の存在を保障したり、著作権肖像権を唱え安易な複製をさせまいとするのも、単位の拘束力を強めようという行為である。だが、その根底には自己のアイデンティティ崩壊への不安がある。崩壊を食い止めようとするごとに、かえってその不安は強く浮かび上がり、内側がより空虚なものへなっていくように感じる。空っぽになったところの向こうから垣間見えるのは運命とか物語とか呼ばれるものだ。これから起こりうることは全て決定済みで選択の余地などどこにもなく、ただ知覚できない何かの目的のために動かされているに過ぎないのではという恐れ。宇宙全体が、水槽の中に閉じ込められ観察される魚と同じで、本当はすぐそばに水槽の向こう側があり、人が生きるとは、そのガラス越しの第三者に操られることでしかなく、うちから湧き出てくるように見える意志や欲望は、それと気付かせないためのカモフラージュかもしれない。

だが、知覚できない何者かの陰を何度見ても、たった今、現在というもの、誰のためでもなく震えている存在を、信じてしまう。そのために制作を続ける。

 

ステートメントとして6月ごろ書いた文章に修正を加えたものです。結局は人間的に解釈せざるを得ない、ということを言いたかったと記憶しています。

近頃はこのような考えはしなくなってきました。あまりに自明なことだからです。

二つの話は実際見たことで、立っている男の画像もありますが、読み返すと作り物くさくて落ち込んでいます。

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